7月18日の日記
2004年7月18日差異がある方が断然にきづきやすい
当たり前だけど大事なことだなあ
風呂でシャワーの湯に打たれてる感覚に気づき続けるよりも
シャワーが終わって、浴室から外に出たその時の方が、体の
感覚に自然に気づきを持て易い
うん、そうだ
差異があると分かり易い
違いに気づき易い
足のほうから冷たい空気が当たってるとか、
頭から足の甲に水滴が落ちたとか、
胸の濡れた感覚よりも背中に水滴がしたたる感覚の方が
わかりやすいなあとか・・・
ホンマにどうでもいいというか、ホンマにその時に感じた感覚を
自分に確認する事
これ、僕は嬉しかった
自分を「出せた」感じがするのね
「気づき続けないと、感覚を追わないと・・」
無理に想念を抑えることに力が入りすぎると
苦しいし、内に内に向かってしまう
ほんでもって結局のところ、それに注意が行き過ぎて
実際に感覚を素直に感じれなかった
だから、差異のあるもの、どうでもいいような
アホみたいなこと、何も微細でなくていい
「微細でないといかん」というのは多分に囚われ
微細な感覚を追えるようになることは大事なことだけど
出来ないからといって、落胆したり、自己嫌悪することは
よくないんだろうなあ
微細な感覚に気づくように努力しつつ、それが出来ないときには
出来ないということにくよくよしない
うん、それでいい
おおざっぱな現実でもいいから、気づいてることを
自然に確認する方がいいんでないかと思った
微細な感覚はヨガの最中とか、特別な時だけで結構
できない時はできないままでええか
何が理想のきづき?とか、こう感じなければならない、
こう感じるほうがいい、というものでない
今、感じたものを、感じた感覚を、自然に確認すること
自己の表現ってこういうことかなあって思います
うん、差異がある方がいいねえ
当たり前だけど大事なことだなあ
風呂でシャワーの湯に打たれてる感覚に気づき続けるよりも
シャワーが終わって、浴室から外に出たその時の方が、体の
感覚に自然に気づきを持て易い
うん、そうだ
差異があると分かり易い
違いに気づき易い
足のほうから冷たい空気が当たってるとか、
頭から足の甲に水滴が落ちたとか、
胸の濡れた感覚よりも背中に水滴がしたたる感覚の方が
わかりやすいなあとか・・・
ホンマにどうでもいいというか、ホンマにその時に感じた感覚を
自分に確認する事
これ、僕は嬉しかった
自分を「出せた」感じがするのね
「気づき続けないと、感覚を追わないと・・」
無理に想念を抑えることに力が入りすぎると
苦しいし、内に内に向かってしまう
ほんでもって結局のところ、それに注意が行き過ぎて
実際に感覚を素直に感じれなかった
だから、差異のあるもの、どうでもいいような
アホみたいなこと、何も微細でなくていい
「微細でないといかん」というのは多分に囚われ
微細な感覚を追えるようになることは大事なことだけど
出来ないからといって、落胆したり、自己嫌悪することは
よくないんだろうなあ
微細な感覚に気づくように努力しつつ、それが出来ないときには
出来ないということにくよくよしない
うん、それでいい
おおざっぱな現実でもいいから、気づいてることを
自然に確認する方がいいんでないかと思った
微細な感覚はヨガの最中とか、特別な時だけで結構
できない時はできないままでええか
何が理想のきづき?とか、こう感じなければならない、
こう感じるほうがいい、というものでない
今、感じたものを、感じた感覚を、自然に確認すること
自己の表現ってこういうことかなあって思います
うん、差異がある方がいいねえ
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