5月17日の日記
2004年5月17日性
難しい問題だ
僕にとって
癒し、それから全ての人への愛みたいなもの
とセックスしたいという欲望は相容れにくいものだと思う
どうしても、この問題にぶちあたると思う
男子求道者はキリスト教であれ、仏教であれイスラム教であれ
この問題に必ず出くわすと思う
頭の中では克服できても、体が言う事を聞かない
どんなえらい、優れたヨギーでも、女の子に手をだしてしまう
ことなんて多々ある
それほどにこの性を手なずけることは難しいことだと思う
セックスしたいという欲望が自らの心の中で燻って
、それと、癒しを求めてる心とが同時に存在できなくなる、矛盾した
気持ちに混乱をきたす、不安定になる
僕の友人のクリスチャンは伝道を目指してる
彼もまた、この問題と向き合うことを本質的に怖れてる
ように見える
僕にはそう見えた
自分のうちのセックスしたいという思いと神の愛を説く行為との
間に矛盾がある、その矛盾に猛烈に苦しみを味わわされるんで
ないかなって思う
彼はそれとも、そいう苦しみとも闘わないといけない
そいうのと僕も同じようなものを感じた
自分は何て汚い人間なんだろう
こんなにピュアな空間で、なんて汚い人間やろうか
そいう思いから自己を否定する
僕の場合はそういう思い、それを不純なものとして
なるべく見ないようにしてきた
なるべく考えないように
不純だ不純だ
こんなピュアな空間に似つかわしくない
笑顔、笑顔、それと欲望は似つかわしくない
その場の居心地のよさ、傷つけない、傷つかない
その場を、自分の居場所を守るために
あえて目をそらしてきたのだと思う
ようするに正直でないってことだ
逃げるのは自分の内面の矛盾から逃げてしまうんだと思う
だから、ピュアな空間、男女が仲良くヒーリングしあうというのは
実はとても難しいことだと思う
混乱する
それは友人の彼女でさえもセックスしたくなる気持ちがどこかに
存在するのと同じで、そいう気持ちに折り合いをつけるのが
難しいのだと思う(僕だけでないはずだ、きっと・・・でしょ?)
奪うか、奪われるか、男の闘争ってのは結局のとこ、このあたりにも
一因があるんやないかなって思う
僕はなるべくセックスしたいという思いも持ちつつ、それも
自然なことだと思いつつ、無視しないで、なるべく
無視しないで、なるべく素直にセックスしたいと告白する・・・
のではなくて(言えたらええなあ、それでやれたらもっとええな)
自分に僕がセックスしたいと思ってるということを納得させる
ことだと思う
ここが一番に難しいことだ
自分の影、「自分」というイメージからそぎ落としたい気持ち
だろうから
かつて村上龍のエッセーにこんなこと書いてあった
「全て女も金も地位も名誉も満たされたミックジャガーみたいな
男が、世界平和が大事だとか、自然を大切にしようと言うならば
やっぱりそうなのかなって納得させられるけど、しょうもない
男が、自然が大事だ平和だなんて叫んでも、オマンコしたいって
気持ちとそっちとどっちが強いんだ?目の前にオマンコできる
ことあればそっちやっちゃうだろうが、そんなもの嘘っぱちだ・・・」
って書いてて、当時はその通りだと思ってたけども
今はそれもちょっと違うかなって思う
同時に存在する思いのどれかだけに焦点を当てたり、無視したり
したらいかん
どれもホンマの自分である
逃げたらいかん、難しいし、倫理に反したり(そう思い込んでる)
皆から白い目で見られることと思い込んでしまって
とても怖いものだけども
とてもピュアな空間、レイキの交流会とか瞑想センターの雰囲気の
中でも、それは一緒なんだと思う
決して、自分の中の、特に性的な問題から目をそらしてはいけない
のだと思う
センターではそいうことは話す機会などない
皆、そいう問題とはすでに折り合いをつけてしまってるのか
はたまた意識的に無意識的にそいう問題から目をそらしてるのか、
それとも僕だけの問題なのか、それが知りたい
だからと言って瞑想を止めるとか、レイキ交流会に行くのを止める
とかそいう風には思わない
行き続けるだろうし、そうしたい
やっぱりあの癒しというか、純な気持ちになれる空間、人に
優しくなれる、そんな自分を確認できる場は、今の僕にとって
ホンマに貴重だ
しかし性的な問題、どうしようか
なんて言う?今、僕は○○さんとセックスしたいと
思ってるんですけど、この欲望は異常なのでしょうか?」
「こんなピュアな空間でさえ、こんなふしだらなことを考えて
しまう僕は向いてないでしょうか?どうしたらいいのですか?」
などと聞くのだろうか
できるかそんなこと!!
ま、ええわ
今のとこ自分で勝手な解釈しておけば
何ともならんようになったら、そのときまた考えよう
難しい問題だ
僕にとって
癒し、それから全ての人への愛みたいなもの
とセックスしたいという欲望は相容れにくいものだと思う
どうしても、この問題にぶちあたると思う
男子求道者はキリスト教であれ、仏教であれイスラム教であれ
この問題に必ず出くわすと思う
頭の中では克服できても、体が言う事を聞かない
どんなえらい、優れたヨギーでも、女の子に手をだしてしまう
ことなんて多々ある
それほどにこの性を手なずけることは難しいことだと思う
セックスしたいという欲望が自らの心の中で燻って
、それと、癒しを求めてる心とが同時に存在できなくなる、矛盾した
気持ちに混乱をきたす、不安定になる
僕の友人のクリスチャンは伝道を目指してる
彼もまた、この問題と向き合うことを本質的に怖れてる
ように見える
僕にはそう見えた
自分のうちのセックスしたいという思いと神の愛を説く行為との
間に矛盾がある、その矛盾に猛烈に苦しみを味わわされるんで
ないかなって思う
彼はそれとも、そいう苦しみとも闘わないといけない
そいうのと僕も同じようなものを感じた
自分は何て汚い人間なんだろう
こんなにピュアな空間で、なんて汚い人間やろうか
そいう思いから自己を否定する
僕の場合はそういう思い、それを不純なものとして
なるべく見ないようにしてきた
なるべく考えないように
不純だ不純だ
こんなピュアな空間に似つかわしくない
笑顔、笑顔、それと欲望は似つかわしくない
その場の居心地のよさ、傷つけない、傷つかない
その場を、自分の居場所を守るために
あえて目をそらしてきたのだと思う
ようするに正直でないってことだ
逃げるのは自分の内面の矛盾から逃げてしまうんだと思う
だから、ピュアな空間、男女が仲良くヒーリングしあうというのは
実はとても難しいことだと思う
混乱する
それは友人の彼女でさえもセックスしたくなる気持ちがどこかに
存在するのと同じで、そいう気持ちに折り合いをつけるのが
難しいのだと思う(僕だけでないはずだ、きっと・・・でしょ?)
奪うか、奪われるか、男の闘争ってのは結局のとこ、このあたりにも
一因があるんやないかなって思う
僕はなるべくセックスしたいという思いも持ちつつ、それも
自然なことだと思いつつ、無視しないで、なるべく
無視しないで、なるべく素直にセックスしたいと告白する・・・
のではなくて(言えたらええなあ、それでやれたらもっとええな)
自分に僕がセックスしたいと思ってるということを納得させる
ことだと思う
ここが一番に難しいことだ
自分の影、「自分」というイメージからそぎ落としたい気持ち
だろうから
かつて村上龍のエッセーにこんなこと書いてあった
「全て女も金も地位も名誉も満たされたミックジャガーみたいな
男が、世界平和が大事だとか、自然を大切にしようと言うならば
やっぱりそうなのかなって納得させられるけど、しょうもない
男が、自然が大事だ平和だなんて叫んでも、オマンコしたいって
気持ちとそっちとどっちが強いんだ?目の前にオマンコできる
ことあればそっちやっちゃうだろうが、そんなもの嘘っぱちだ・・・」
って書いてて、当時はその通りだと思ってたけども
今はそれもちょっと違うかなって思う
同時に存在する思いのどれかだけに焦点を当てたり、無視したり
したらいかん
どれもホンマの自分である
逃げたらいかん、難しいし、倫理に反したり(そう思い込んでる)
皆から白い目で見られることと思い込んでしまって
とても怖いものだけども
とてもピュアな空間、レイキの交流会とか瞑想センターの雰囲気の
中でも、それは一緒なんだと思う
決して、自分の中の、特に性的な問題から目をそらしてはいけない
のだと思う
センターではそいうことは話す機会などない
皆、そいう問題とはすでに折り合いをつけてしまってるのか
はたまた意識的に無意識的にそいう問題から目をそらしてるのか、
それとも僕だけの問題なのか、それが知りたい
だからと言って瞑想を止めるとか、レイキ交流会に行くのを止める
とかそいう風には思わない
行き続けるだろうし、そうしたい
やっぱりあの癒しというか、純な気持ちになれる空間、人に
優しくなれる、そんな自分を確認できる場は、今の僕にとって
ホンマに貴重だ
しかし性的な問題、どうしようか
なんて言う?今、僕は○○さんとセックスしたいと
思ってるんですけど、この欲望は異常なのでしょうか?」
「こんなピュアな空間でさえ、こんなふしだらなことを考えて
しまう僕は向いてないでしょうか?どうしたらいいのですか?」
などと聞くのだろうか
できるかそんなこと!!
ま、ええわ
今のとこ自分で勝手な解釈しておけば
何ともならんようになったら、そのときまた考えよう
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